愛車(4)
’性能の向上’に目覚めた組長。
それこそ’セ×カLB’と寝起きを共にし、三食を共にとる、と言う生活であった。
あっちに、ワークス放出のクランクがあれば、見に行き値段を聞く。
(殆どが’とんでもない値段’で、手が出なかった)
こっちに、数量限定のスペシャル部品が出てきたと聞くと、はってでも行ってみた。
(この手合いは、さほどの金額では無いので結構手に入れたが、悪い結果となる事が多かった)
走らせる場所も変わってきていた。
最高速を試すには何といっても’保○ヶ谷バイパス’であった。
別名’ワンマン道路’とも呼んでいたらしい、凄く昔の総理大臣が「自宅に帰るため」の道路を作り、それがあまりにも’ワンマン’だということで命名されたようだ。
なにしろ’無料’である。
距離は短いが、きついコーナーも無く、舗装が非常に良かった。
ここでのテストで「ん、効果、ありだな!良好、良好」となるとそのまま’第三京浜’に出動である。
こちらは、’有料’なのだが、¥80.−(当時)とリーズナブルであった。
(暴走族ではないのでちゃんと支払っていた。へんなプライドである!!)
舗装の方は’まあまあ’と言う感じであったが、部分的に3車線あったのだ。
(今は全線、3車線である)
世田谷まで、何百往復したのであろう。
通行時の領収書でグローブBOXがいっぱいになった。
’最高速’だけではない、’加速力’にも、こっていた。
ちょうど青山通りで’ゼロヨン’がはやり始めた頃である。
青山には数回、足を運んだがギャラリーも多くなり始めて、変な話だが「危ないなー」ということで行かなくなってしまった。
ちなみに勝率の方はと言うと、6勝10敗くらいだったと思う。
「これっからはゼロセンだな」とか言って、ひとりで走っていた。
その、走っていた場所とは’新横浜’である。
いまは、ゴチャゴチャといろいろな建物があり人もたくさんいるが、当時は畑と野原だけで、何も無くきれーいなまっすぐの道路があるだけであった。
信号も3つくらいで、夜間には点滅で、それこそ’好き放題、やり放題’の状態であった。
いったりきたりと、7〜8往復くらいすると、’赤いキラキラ号’がやってくる。
即、逃走である。
レーダーとかを仕掛けられた事もあったが、しばらくは捕まらなかった。
(後で聞いた話だが’レーダー’というのは、測定範囲として50〜60km/hのレンジでしか測定できないらしい)
ある日の事「今日も快調だな、洋ちゃん、タイムは??」と3往復目に入った時のことである。
レーダーの準備などしていないのは確認済みであった。
2速、3速と順調に’レッド’まで回し、4速で踏み込んでいる時であった。
「こらぁー!!止まれーー!聞こえんのかー!!」
ふと、右側を見ると’赤いキラキラ号’しかも’S30Z’である。
スピードメーターを見たら190km/hを超えようとしていた。
しぶしぶ止める。
暴走族では無いからである。
また、ぶっちぎろうとしても、ここまでついて来た’S30Z’であるからして、カーチェイスになってしまう。
組長はおまわりちゃんに言った。
組「これっ、早いっすねえ!!」
お「おまえを捕まえるんでわざわざ来たんだ!!」(どうやら高速機動隊らしい)
組「エンジン、標準じゃないでしょう?!」
お「ああ、アメリカ向けがつんであるらしい」
組「ちょっと、みせてくださいよー」
お「ダメだ!!お前、ちっとも反省しとらんなーー!!」
後日「少年○○は横浜市・・・の道路、50km/h制限の所を、178km/hで走行をし・・・罰金95,000円を命ずる」
なぜかはよくは分からなかったが、組長は当時未成年だったのだが成年への移行時期だったらしく、少年のくせに罰金刑となってしまった。
まあ、鑑別所よりは良かったが・・・・。
また、超過速度が100km/hを超えた為に、
「お父さんを、どう思う?・・この絵を見て・・・好きな音楽・・今後の事は・・・・人生って」
とか2時間くらい、お医者さんと話をさせられた。
どうやら’精神鑑定’というものだったらしい。
2004年8月24日